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ア ボ リ ジ ニ ー の 遺 跡

  • 最後にリトル・スワンポートの海から陸に上がって、目の前を見ると何か遺跡らしきものがある。ハイデン氏に聞くと、これはアボリジニーの遺跡だという。それも牡蠣を食べた貝殻遺跡だというではないか。
  • world09_08_sum.pngアボリジニー遺跡
  • 日本にも中里貝塚(なかざとかいづか)がある。東京都北区上中里にある貝塚で、国の史跡に指定されている。縄文時代の「水産加工場」と大々的に報道されたが、貝塚は奥東京湾西部の海岸線に沿っていることが明らかになり、ムラの一角にできた貝塚ではなく、浜にできた貝塚であった。その規模は幅約40メートル、長さ1キロメートルにも及び、牡蠣(マガキ)や蛤が大半を占め、春先のカキと初夏のハマグリが交互に貝層を形成し、高さ約4.5メートルにもおよんで堆積している。古の人々はいずれも牡蠣を食べて暮らしていたのである。ここタスマニアのリトル・スワンポートの海でも同様である。これはアボリジニーが牡蠣を食べた牡蠣殻の遺跡跡であり、その後、入植した白人たちが、アボリジニーの食べた牡蠣殻を焼いて石灰をつくり漆喰にした跡の、煉瓦の崩れた建物、焼却炉がある。
  • オーストラリアの先住民アボリジニーは、白人たちが追い払い、中には絶滅させたところもあるが、アボリジニーの歴史を少し振り返ってみたい。まず、オーストラリア本土に最初のアボリジニが北方より移ってきたのは、おおよそ4万年前で、それが南部のビクトリアの付近まで移ってきたのが3万年前、そして当時 地続きであったタスマニアまで下ってきたのが2万年前、12000年前ぐらいにタスマニアが島として別れたので、その後本土のアボリジニーとは異なった独自文化を構成した。オーストラリア大陸は、14000年前ぐらいに氷河期が訪れた為にアボリジニーは一時衰退し、その後6000年前ぐらいに、現在の海水面程度に安定したので、その時から再びアボリジニーは復活し、さらに、4000年前ぐらいに再び衰退し、またもや2500年前ぐらいに再び復活して、最後のアボリジニーとしての生活文化を作っていったといわれている。白人が最初の入植を行なう以前(18世紀後半以前)のタスマニアアボリジニーは、当時全体で3000人から4000人くらいで、これが250名から700 名の9つの部族に分かれて異なったエリアで生活をしていた。ただし、それぞれの部族は多少季節的な生活場所の移動を行なっていた。
  • リトル・スワンポートの貝塚は、このうちの部族のひとつOyster Bay Tribeだった。この部族は、タスマニアの東海岸一帯を生活の拠点として、主として海岸線に住み着いていたが、こういった海岸線に住む部族の中心的な食料は貝類とオットセイの肉だったようで、魚はほとんで食べていなく、夏の時期は山間部に移動しカンガルーなどを獲っていた。魚を食べなかった理由は、より容易にカキ、アワビ、ムール貝、イセエビなどが沿岸部で収穫できたからであろうと推測されている。この他に、貝塚はフレシネ半島部分でも多数見られるが、その中でもリトル・スワンポートの貝塚は、規模的にかなり大きいもので、年代的には相当古い時代から形成されたと推測されるが、はっきりとその年代をしめす資料はない。だが、上記のような歴史から推測すると1000年以上前から形成されたと思われる。
  • タスマニアアボリジニーの遺跡を見て、ここには太古から牡蠣が生息していたことが証明された。また、その謂れを残すために、この地がGREAT OYSTER BAYになっているのだろうし、ここで食べた牡蠣が今まで一番美味いと感じた。
  • いずれにしてもタスマニアは素晴らしい環境島である。そのことを「タスマニア」(吉岡啓子著)が次のように表現してる。「世界で一番空気と水のきれいな島。世界一ピュアな風に包まれ、欝蒼と生い茂った温帯雨林、太古の姿を残す動植物。歴史の漂う素朴な町、そこはオーストラリア最南端に浮かぶ島タスマニア。心の赴くまま静かに流れる時を過ごしませんか」機会をつくって再び訪ねたいタスマニア島であった。
  • (オーストラリア編 おわり)