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ス ペ イ ン で 日 本 を 知 る

  • s_01_01.pngガリシア州ビゴ湾
  • 2009年ころからPIGS又はPIIGSという造語が新聞紙上を賑わすことが多くなった。PIGSとはポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの南欧四カ国の頭文字をつないだもの。これにアイルランドを加えたものがPIIGS。金融市場が混乱した2007年以降、不動産バブルが崩壊し失業率も上昇して、08年ころから欧米メディアに登場しだして、日本にも伝わってきた。英語で「When pigs fly(ブタが空を飛んだら)」という言い方があるが、その意味は「ありえない」という意味で使われる。 当該国からは差別的名称だと反発もあるが、これらの国は、財政支出対GDP比率と失業率が「同時に悪化」しているのが実態だ。 一般論で言えば、一国の経常収支が赤字になれば、自国通貨が下落して輸出が増えるという外国為替の自動調整メカニズムが働くのだが、PIGSはユーロという統一通貨の下にあり、為替による調整が勝手に出来ないので、後は、景気が減速するに任せ、結果的に輸入が減少することによる経常収支均衡化を目指すしかないわけである。ユーロ圏経済もなかなか難しいと感じる。
  • そのタイミングの2010年1月にイタリア・ローマ空港から、スペイン・マドリードへ向かった。ローマ空港でイベリア航空に乗るためゲートD7に行き、一番に搭乗手続きをし、機内に向かう通路を歩いて行くと、途中に通行禁止のロープが張ってある。おかしい。エアーに向かう通路が通行禁止とは。しかし、向こうを見るとエアー入口に客室乗務員が出迎えの姿勢で立っている。そうか、通行禁止のロープは準備完了するまでのもので、搭乗時間になったのに、係員がロープを外すのを忘れたのだろうと推測し、ロープを外して機内入口に向かったが、出迎える客室乗務員は何事なかったような顔で、座席の方向を指示し、後ろに続く乗客にも同様である。これは、大したことではなく、細かい出来事かもしれないが、こういうところにその国のシステムが表れていると思う。イタリアがPIGSと差別的別称で言われる要因がなんとなく分かる気がする。
  • さて、イベリア航空の機内では、すぐに寝て、目を覚ましたらワゴンサービスが、既に通り過ぎてしまっている。後で来ると思ったが来ない。マドリードへ着陸近くになって客室乗務員を呼び、水を希望するとコップに入れた一杯だけ持ってくる。この時、はっと気づいた。イベリア航空は無料機内サービスがないのだということを。水でも何でも有料制になっているのだ。そうすると、あの水は特別サービスだったのか、と思いつつ、国をまたがって飛ぶエアーでも無料サービスが「全くない」というイベリア航空、ここにPIGSスペインの経済事情が表れていると感じる。
  • 話は突然中国になるが、2010年3月に上海から福建省・厦門アモイまで国内便の吉祥航空に乗ったが、僅か一時間半のフライトなのに、すぐに食事と飲みもが提供された。帰りは中国東方航空であったが、これでも同様のサービスである。また、客室乗務員は若くて美人揃いであった。スペインとは大きく違うのでビックリした次第。しかし、マドリード・バラハス空港についてみて驚いた。到着したターミナル4はガラス張りで明るく、巨大な空間を持っている。とにかく広く爽やかだ。これはスペインの気候を表現しているのではないかと感じるほど素晴らしい。設計はイギリス人で、リチャード・ロジャー氏Richard Rogers、年齢は 73歳というが、こういう若々しいダイナミックな設計ができるとは!!。人は年齢でないと再確認する。また、彼はこの空港の設計で、2006年10月にイギリス最高の建築学会賞を受賞している。
  • プラド美術館前のホテルに落ち着き、ロビーで地元の方から一枚の新聞記事を見せていただく。それはスペインのクオリティーペーパー、エル・パイス新聞、1996年10月27日付けで、タイトルに「日系スペイン人(?)いや、セビリア人だ!17世紀の支倉常長遣欧使節団一行の子孫」とある。セビリア万国博覧会は、コロンブスのアメリカ大陸到達500年を記念し、テーマは「発見の時代」として1992年開催であったから、どうして1996年の新聞にこのような記事が掲載されたかは、以下の新聞記事の訳を読んでいただければ分かるが、新聞には次の写真が載ってる。
  • s_01_02.png件のレストラン
  • 男の子は、宮城県が贈った支倉の銅像写真の下で、日本人の面影があると思われるセビリアの男の子の写真と、もう一人の男性の顔写真はサッカー審判員のホセ・ハポン氏である。以下が全文。
  • 「東洋の日の出る国、日本の大名伊達政宗の親書を持った支倉常長一行30数名が大西洋のサンルーカルからグアダルキビール川を遡って、当時西欧最大都市の一つだったセビージャ市近郊のコリア・デル・リオ(現在の人口24,000人)内港の町に上陸したのが、今から約400年前の1614年10月24日のことだった。その遣欧使節団の目的は、スペイン国王フェリペ3世やローマ法王と謁見して伊達政宗の親書を渡し、徳川幕府とは別に独自で仙台とメキシコ・スペインなどとのの通商条約やキリスト教文化交流などに協力要請することだった。支倉はフェリペ3世国王とセビージャやマドリッドで謁見できたが、ローマ法王とは会うことが出来ず、3年後の1617年に帰国することを決めた。ところが使節団一行の中の十数名がコリア・デル・リオに残留することにしたのである。彼らは身分が低く名字がなかったので、通称“ハポン(日本)、ハポネス(日本人)”と呼ばれ、スペイン女性との間に出来た子供に“ハポン”の名字が付けられてきた。それから“ハポン”姓は400年の間、スペインで受け継がれてきた。現在コリア・デル・リオ町に400人、近くにあるコリア町に270人、セビージャ市に30人、合計700人のハポンさんが住んでいる。1992年コロンブス新大陸発見500周年を記念してセビージャ市で万博が開催されたが、その時宮城県がコリア・デル・リオ町に支倉常長の銅像を贈った。1996年10月下旬、当時の坂本日本全権大使が支倉使節団の栄誉を称え、日西親善のために“ハポン”姓を持つ市民を招待して、セビージャ市で祝賀パーティーを開催した。子孫達の多くは当時、自分達の先祖が日本の侍で遣欧使節団としてスペインに来たとは知らなかったが(昔からの伝聞で日本からの漁船が難破して、日本人漁師達が漂流して流れ着いたということを信じていた)、自分自身がハポン姓を持っていることに対して、「ただ珍しい名字だ」くらいで、特別な感情やこだわりなどは持っていない。ハポン姓を持っている有名人は、1990年にミス・スペインに選ばれたマリア・ホセ嬢、セビージャ万博当時のアンダルシア州文化長官のホセ・マヌエル・スアレス氏そしてスペインサッカープリメールリーグの名審判ホセ・ハポン氏などである。ホセ・ハポン氏は既に現役を引退しているが、その祝賀パーティーの日にFCバルセロナとバレンシアの試合があったため、坂本大使に鄭重な欠席届けの手紙を差し上げたと言う。ホセ・ハポン氏は「自分の体の中に極わずかでも日本侍の血が流れていることに誇りを感じている」と胸を張って言った」
  • スペインと日本の関係は今から約400年前からであるが、その歴史的事実の証明が氏名という個人の姓から明確化されていること、これはスペインの姓名制度のおかげである。
  • スペインでの姓は「父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」や「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓」、「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓、母方の祖母の姓」という名乗り方をする。女性は結婚すると「名、父方の祖父の姓、de+夫の父方の祖父の姓」で名乗るのが一般的。つまり、一度名についた姓は、結婚しても一生ついて回り、それは子供を通じ以後も同様ということである。ですから、この記事にあるように「日本」という名がついた人々は伊達政宗の親書を持った支倉常長一行30数名の後裔であると判断可能となる。この新聞記事によって、一気にこちらのスペインに対する好感度は増してきた。

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