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ア メ リ カ ・ サ ン フ ラ ン シ ス コ

サ ン フ ラ ン シ ス コ と い う 街

  • サンフランシスコの牡蠣について述べる前に、サンフランシスコという街はどういうイメージであるかについて触れたい。サンフランシスコを描いたものに、アルフレッド・ヒッチコック監督による、巧みなサスペンス映画「めまい」(1958年)がある。高所恐怖症になったジェームス・スチュアート扮する元刑事が、キム・ノヴァク扮する友人の妻を追跡することによって、サンフランシスコを案内していく。
  • サンフランシスコのダウンタウンには三つの丘がある。コロンバス・アヴェニュー北東の海岸寄りにテレグラフ・ヒル、西側の中心にラシアン・ヒル、その南にノブ・ヒル、この三つの丘を迂回させずに道路を造ったので、道は高低差が激しく、坂道の街になっている。サンフランシスコは坂の街と言われる所以であり、ケーブルカーが観光名物である。
  • 二人は、キム・ノヴァクを追う関係から、いつか親しくなって、郊外へと車は向かう。着いたところは、サンフランシスコから150キロ離れたサン・ファン・バウティスタ教会であるが、ここでキム・ノヴァクは突然錯乱状態になり、鐘楼に駆け込み、らせん階段を上って、塔の上から落ちて死ぬ。彼女を失ったジェームス・スチュアートは精神的な病気になるが、退院してから彼女を求めてサンフランシスコの街をさ迷い歩き、とうとう再びキム・ノヴァクを見つける。死んだ彼女が生き返るはずもないわけで、そこがヒッチコック監督のトリック・サスペンスストーリーが展開されるのが、何故に、ヒッチコック監督が「めまい」の舞台をサンフランシスコにしたのか、それについて触れたい。

サ ン フ ラ ン シ ス コ は 地 震 の 街

  • 実は、サンフランシスコは地震の街なのである。1906年4月18日、春とはいえ肌寒い日の朝、サンフランシスコとその近辺の大地が突然に暴れだした。1906年という年は丙午であり、丙午の年は「この年は火災が多い」、「この年に生まれた女性は気が強い」などの迷信が生まれているが、確かに、1906年は世界で地震が多く発生したのは事実である。まず、この年の1月31日にエクアドル・コロンビア大地震、マグニチュード8.8が発生し大被害を被ったが、この16日後、今度は当時カリブ海のイギリス領ウィンドワード諸島を形成するセントルシア島でマグニチュード7と8の間に該当する地震が発生し、死者は出なかったが、これが引き金で「火山性群発地震」が続いた。
  • この5日後、黒海からカスピ海まで走っているカフカス山脈に所在するシェマハ、モスクや寺院の多い古都で地震が発生した。ここも死者は出なかったが、4週間後の3月17日に台湾で大地震が発生した。嘉義(チアイー)地震とも梅山(メイシャン)地震とも呼ばれるもので、9,000戸の住宅が倒壊、1,227 人が死亡した。この11年前の明治28年(1895)に、日清戦争による下関条約で台湾は日本の統治下に入っており、日本による驚異的な救助活動が行われた。4月6日、イタリアのヴェスヴィオ山が噴火した。この噴火は紀元79年の伝説的大噴火よりも、劇的で強烈だったという火山学者もいるほどで、死者は150 人だったが、頂上の噴火口の縁は、ほぼ完璧なまでに水平に削ぎおとされた。今日に見られる山の姿は、このとき以来のものである。
  • その直後の4月18日に、サンフランシスコの大地震が発生し、さらに8月半ば、マグニチュード8.3がチリ・サンティアゴから100kmのバルバライソの港町を襲ったのである。2万人が亡くなった。

当 時 の 状 況

  • 1906年のサンフランシスコ大地震について、その当時の状況を100年後の2006年4月18日、AFPBBニュースが次のように伝えている。「18日、1906年のカリフォルニア州サンフランシスコの大地震から100周年を迎える。この地震で建物は崩壊し、地震後に発生した『大火』は3日間燃え続け、地震で崩壊しなかった建物のほとんどが焼失した。人口45万人のうち20万人が住む家を失った」如何に被害が甚大であったのかが分かるが、さらに、83年後の1989年10月17日にもマグニチュード6.9の大地震が訪れた。この地震は最近のことであるから、当時、サンフランシスコに出張していた日本人の記録も多い。その一部を紹介しよう。
  • 「オフィスビル28階、4・5名での会議中に突然マグニチュード6.9の大地震に襲われ、窓ガラスを突き破って放り出されそうになるほど身体があちこちに飛ばされ、自力で立っていられない恐怖の余り、会議参加者全員が言葉を失った。壁に亀裂が入ったオフィスビル階段を夢中で走り降りてやっと外に出た。オフィス街の沿道は割れ落ちた窓ガラスの破片で覆われていた。オフィス街沿道に緊急避難したワーカー達を潜り抜けて辿り着いたホテルは、夕闇迫る時間帯で薄暗いロビーには手探りの宿泊客が不安げにざわめいていた。ロビー内片隅のバーにはロウソクが点滅し、身の置き所のない宿泊客が自棄酒なのかグラスを傾けていた」

地 震 の 多 い 理 由

  • 何故にサンフランシスコ近辺が大地震に襲われるのか。それはサンアンドレアス断層による。この断層は、1906年の大地震を調査するために設立された、カリフォルニア州地震委員会の公式報告書で明らかにされている。サンアンドレアス断層は西海岸にそって1,200kmも走っていて、そこに太平洋プレートと北アメリカプレートが接している。太平洋プレートは年に約 4cm北へ移動し、北アメリカプレートは逆に南に移動しようとする。この動きがサンアンドレアス断層線でぎしぎしこすれあって、そのずれが激しくなると大地震になるという。
  • サンアンドレアス断層の地図を見ると、確かにサンフランシスコ市街を走っている。ということはサンフランシスコでは何時地震が発生してもおかしくない街であることが分かる。
  • つまり、サンフランシスコは激しい揺らぎの危険ゾーンであり、いつ「めまい」が訪れてもおかしくない街である。ヒッチコック監督が1958年に、サンフランシスコを舞台に制作した31年後に大地震が発生しているのであるから、映画はそのことへの暗示であったかもしれない。しかし、訪れたサンフランシスコは、明るい陽光と、坂道から見下ろす海が綺麗で、住んでみたい都市で常に上位に存在する美しい街という、魅力的な街であることは間違いない。

牡 蠣 養 殖 場

  • サンフランシスコはカリフォルニアワインで有名である。たまたま訪問した家がソノマバレーでワイナリーを経営していて、お土産にいただいたジンファンデル葡萄の「イレーン・マリア」という赤ワインは絶品だった。一般的にはワインはフランスだ、という概念があるが、ワインコンテストを目隠しですると、世界各地で生産されている様々なワインが入賞し、かつてのようにフランス産が上位を独占することはなくなって、その中でもカリフォルニアワインの評価は高い。そのため日本人の多くは、サンフランシスコの街中を一巡観光すると、一時間半ほど車を走らせてナパバレーかソノマバレーに向うことになる。
  • sign_18.jpgダマレス・ベイ・オイスター近辺地図
  • ここは全米一のワイン生産量を誇り、別名「ワインカントリー」と呼ばれるように400か所以上のワイナリーがあり、そこでワインを楽しむ。したがって、日本人のほとんどは、牡蠣養殖場に無関心である。
  • その日本人は行かない牡蠣養殖場は、ゴールデンゲートブリッジを渡って101号線を北上する海岸にある。海にはいくつも養殖場があるが、目的地はタマレス・ベイ・オイスター Tomales Bay Oyster である。サンフランシスコの中心から41マイル(66km)ある。訪問したのは2008年11月。
  • 途中101号線から1号線方向に入ると大変な道になってくる。左側に海、右側に丘、交互に景観が猫の目のように変わって楽しいが、丘陵地帯の中を曲がりくねる七曲り道、素人には運転が難しいので、プロの日本人ドライバーにお願いしたが、その運転ぶりを後部座席からびくびく見つめ続けるほど厳しい道のり。
  • sign_20.jpgタマレス・ベイ・オイスターの海
  • ようやく到着したタマレス・ベイ・オイスターの浜辺、ここは一番カルフォルニアで古いオイスターベイである。1906年に開始している。大地震の年である。
  • この海では、1,500年頃からネイティブのインディアンが牡蠣を食べていた。また、その後アメリカ時代に入ってからは鉄道が走っていた。その当時はアトランティック・オイスターであり、当時は冷凍設備がなかったので、氷に入れてサンフランシスコまで、海から採って24時間以内で届けるようにしていた。
  • 今の経営者は、ここで社長と奥さん二人で始めてから21年。それまでに4回持ち主が変わっている。この海はカリフォルニア州から使用権を借りている。この入り江の半分150エーカーだが、全部は養殖には使っていない。このほかに南のほうにモロベイ、サンタバーバラ、サンディゴにも養殖場がある。
  • 現在、養殖しているのはパシフィック・オイスター、つまり、日本のマガキである。養殖方法はフローティングシステムを10年前から取り入れた。網の中に浮き袋をいれて、海中の上部に浮かせておく方法である。そうすると網の中の上のほうに太陽光が入り、プランクトンが発生しやすく、栄養分が豊かになる。
  • 養殖する稚貝はすべて三倍体カキで、カリフオルニアの2ヶ所と、カナダ・ワシントン州の1ヶ所から仕入する。三倍体カキを使用する理由は、この海は自然の稚貝には向いていないと判断しているから。
  • 養殖方法は11月から4月中旬までの間に、稚貝を網に入れ、少し大きくなってから網目の大きい袋に入れかえる。この時の稚貝生存率は65%である。
  • フローティングシステムのよい点は、波が網に影響し、牡蠣を動かしてくれることだ。海の深さは6フィートから7フィート。(1.8mから2.1m)それまでは台の上に網を置く方法だったが、これは網をひっくり返す作業が必要で大変だった。
  • 成長するまで16ヶ月かかり、牡蠣の大きさで5種類に分けている。Extra Small, Small, Medium, Large, Jumbo 。
  • 客の好みはSmallとMediumに集中する。出荷する牡蠣は4つの浄化槽で約1週間入れる。3週間も入れると浄化槽は栄養がないので味が変わるから要注意だ。
  • この日に試食した牡蠣は、隣の養殖場のもの。お互い品物を譲り合うシステムにしている。水温は摂氏10度にしている。養殖の割合は牡蠣が90%、ムール貝と Manila Clams マニラ・クラムが残り。
  • この海はナショナルパークだから再開発できないようになっているので、きれいである。海の水は28日間で入れ替わる。この湾を出たところは太平洋。牡蠣の出荷量は1年間で60万個というように、経営は小規模で行っている。
  • 浄水槽から取り出した牡蠣を剥いてもらって味見する。この瞬間が牡蠣取材で最高の至福の時だ。牡蠣が育った海の味と匂いが口の中に広がっていき、其の昔、欧米では王侯貴族しか食べられなかったという風韻の味わい、一般店頭で食べる牡蠣とは比較にならない。
  • 「うーん・・・。素晴らしい」と言い、ふと隣のドライバーを見ると「私は生れて初めて生で牡蠣を食べました」と少し情けないような声を発した。
  • これにはタマレス・ベイ・オイスターの社長がビックリ仰天で、眼を剥いて「日本人は刺身を食べるのに」と怒ったような声で指摘する。
  • しかし、これが一般的な日本人の実態だろう。日本では調理して食べるのが常識であり、欧米では生で食べるのが常識だから。この常識の違いが日本人を牡蠣養殖場に向かわせないのである。
  • 社長が剥いてくれる牡蠣を遠慮なく食べ続けていると、ロシア人観光客が入ってきた。このタマレス・ベイ・オイスターの牡蠣は、毎日サンフランシスコのオイスターバーに出荷しているが、海辺で食べたいという人々がこの地に訪ねてくる。
  • そこで、社長にどこの国の人が多いかと聞くと、まず挙げたのがメキシコ人、ロシア人、その次に韓国人も来るなぁと言う。日本人はどうかと聞きますと、はっきり「来ない」との答え。アメリカ人を含めて、ここに来て食べる客の売り上げシェアは40%であるから、この浜辺に来る観光客は多いのだが、日本人の関心は「ワインカントリー」であって、これほど美味い新鮮な海の牡蠣にはない。

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