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何故にこのような戦争が勃発したのか

  • 現代のクロアチアを歩き、ドブロヴニクを訪れる旅人の眼には戦争の跡は感じないが、確かに大きな騒乱状態が続いた。
  • 簡単にクロアチアの歴史をひろってみたい。
七世紀

民族大移動の時代にクロアチア人は、当時ローマ帝国の領域であったパノニアとダルマチアの地にやってきた。

925年 領主のトミスラヴがクロアチア人を統合して王になる。
1102年

クロアチアはハンガリーと合併した。だが、国家としての主権は完全に保証されていた。次の世紀には、クロアチアの一部は当時の幾多の強大国が領有していた。同時にトルコの侵略に対する戦いが幾度かあった。

1526年 クロアチアは強大なハプスブルグ王朝に組み込まれたが、部分的には主権を保持していた。
1835年 民族回復運動が始まり、クロアチア語の再確認、封建制の撲滅、議会制度の再確立が始まった。
1918年 第一次世界大戦後、スロベニア人、クロアチア人、それにセルビア人の王国が成立し、後にユーゴスラビア(南スラブ人の国)と名付けられた。
1929年 セルビア出身のアレクサンダル王はユーゴスラビア議会を潰し、独裁が始まった。
1941~45年 第二次世界大戦は、共産主義グループの指導の下に、反ファシズム活動と戦闘を通じて、六つの共和国が形成された。この六共和国・・・スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア・・・はユーゴスラビアという共産党一党指導の連邦を形成した。1948年にはソビエト連邦ブロックから離脱した。
1980年 ヨシップ・ブロゾ・チトー死去。
1981~89年 国内に経済・政治それに民族間の全般的危機が急激に高まる。
1990年 クロアチアで戦後初めての民主的な選挙が行われ、共産党が敗れた。
1991年 クロアチアの住民は国民投票で95%以上の賛成をもって独立を決定。セルビアとユーゴスラビア軍がクロアチアに対して戦争を始めた。


  • ドブロヴニクが破壊されたのは、この1991年に発生した戦争であるが、この戦争を理解するためには、多民族国家のユーゴスラビアに対する一応の理解がないと分からない。ユーゴスラビアの地は、第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって六カ国による、多様性を内包したユーゴスラビア社会主義連邦共和国となった。
  • また、ユーゴスラビアはチトーが共産主義者として東側陣営に属してはいたが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。即ち、チトーのカリスマ性と宥和政策によって、国内の民族主義者の活動が抑えられ、ユーゴスラビアに統一がもたらされていた。
  • だが、1980年チトー死去後、1990年近くになると、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で、東側世界に民主化が広がり共産主義が否定され、ユーゴスラビアにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことになり、チトー時代の体制からの脱却を図り始め、このプロセスの中で、セルビアとユーゴスラビア軍がクロアチアに対して戦争を仕掛け、ドブロヴニクが破壊されたのである。
  • ところで、1945年から90年まで45年間続いたユーゴスラビアでは、どのような教育が児童になされ、その後の戦争によってどのように変化したのか。それを「バルカン・ブルース ドゥブラヴカ・ウグレシィチ著 未来社1997年出版」から見てみたい。「学校では、ユーゴスラビアには六つの共和国と二つの自治州、六つの民族といくつかの少数民族が住んでいると習った。また、ユーゴスラビアにはいくつかの言語共同体が存在していること、三つの大きな宗教共同体・・・カトリック、セルビア正教会、イスラム教・・・とたくさんの小さな宗教団体があることも習った。
  • そして、ユーゴスラビアは、山がちのバルカン半島にある小さな美しい国だと習った」「大きくなったとき、習ったことはすべて本当であることがわかった。とくに山がちのバルカン半島にあるこの国の美しさは本当だった。
  • 最初に役所に届けた書類では、国籍の欄にこう書いた。『ユーゴスラビア人』。わたしは、歴史家や政治学者がチトー主義と呼んでいるイデオロギーの枠組みのなかで大人になった」「本と友だちがわたしをとりまく世界だった。だから、ママが10年前から愚痴をこぼすようになった理由は、わたしにはまったく不可解だった。『戦争にさえならなけりゃ何があってもいいのよ、戦争にさえならなきゃねぇ』。
  • この言葉はわたしを苛立たせた。そして、ママの気苦労は歳をとったせいだと思った。『戦争』という言葉がわたしの頭のなかに呼び起こすことができたたったひとつのイメージはと言えば、ミルコとスラヴコという少年バルチザンが出てくる子供だましの漫画みたいな小説だけだった。『気をつけろ、ミルコ、銃弾だ!』『おっと、サンキュー、スラヴコ!』。主人公たちのやりとりはいつもこんな具合だった」「時間は円環のようにめぐり、ちょうど50年が経過して、20世紀の90年目に入ったところで新しい戦争が勃発した。今度の相手は『邪悪なドイツ人』でも、『腹黒いファシスト』でもなかった。
  • 今度はこの国の参加者たちが、自分たちのあいだで配役を分配した。何千何万というひとびとが死に、家とアイデンティティと子供を失い、何千何万というひとびとが自分の国で不幸な亡命者、難民、ホームレスになった。戦争はあらゆる戦線でおこなわれ、あらゆる穴に押し寄せ、つけっぱなしのテレビや新聞記事や報道写真からちょろちょろ流れだした。
  • ばらばらに解体された国のなかで、リアルな戦争とメンタルな戦争とが並行して進行した。リアルな砲弾とメンタルな砲弾が、人間、家屋、都市、子供、橋梁、記憶を吹き飛ばした。現在の名でもって過去をめぐる戦争が遂行され、未来の名でもって現在に対する戦争が遂行された。新しき未来という名目で、戦争が未来をむさぼり喰った。戦いが、その手の国家は、ご存じのとおり世界史にはたくさんの実例があり、したがってなるべくしてそうなっただけのことだ」如何でしょうか。
  • クロアチア人の一児童が教育を受け、大人になった時の戸惑いと変化、これは日本が第二次世界大戦で敗戦した時と同じではありません。外国に負けたのでなく、今まで同じ国民と思っていた人々の間での戦争であった。
  • では、どうして戦争が起きたのか。それをクロアチアでガイドしてくれた日系青年に聞くと、達者な日本語で解説してくれたが、一生懸命聞くのであるが「よくわからない」という結果で終り、それを日系青年に伝えると「そうでしよう」と言い、実は、自分も的確には分かっていないと発言し、とうとうアメリカCIAによる謀略ではないかと発言するほど複雑なのである。
  • いわゆる内戦なのか、それとも元々国と民族が異なっていたのだから、当然にあり得る外国との戦争だと理解すべきなのか。そのところの線引き作業が難しく、この課題を解決すること無く日本に戻ってみると、日本の地はいつも穏やかで、安全・安心感に満ちあふれた美しい国であると実感でき、政治家の出来は悪いが、国民は素晴らしいと世界から称賛された社会に戻ることができ、ホッとする。

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