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世界牡蠣研究家
山本紀久雄

  • 同じように、何かのイベントを機会に地方の街が大変身する事例もある。それが今回訪れたウィスタブルWhitstableである。ロンドンで一泊し、翌日の2013年7月26日(金)に、ロンドン・ヒースロー空港から約160km離れたケント州、ロンドンの南東に位置するウィスタブルへ車で向かった。約2時間で到着。この街で牡蠣祭りが27日(土)から一週間にわたって開催される。
  • 電車でウィスタブルへ行く場合は、 ロンドンのSt Pancras駅、Victoria駅、London Bridge駅からそれぞれ30分ごと、直通または1回乗り換えでWhitstable駅まで約1時間30分(日曜は本数が減る上、乗り換えも増えるので注意)。 Whitstable駅から牡蠣祭りパレードが行われる目抜き通りまで、歩いて約10分で着く。
  • ウィスタブルはカンタベリー司教区に属している。カンタベリー大聖堂は、イギリス国教会の総本山であり、597年に「アングロ・サクソン人たちをキリスト教に改宗すべし」というローマ教皇グレゴリウス一世の命を受けて、イングランドへやってきたアウグスティンがカンタベリーに修道院を建立し、司教座(カテドラcathetra)につくと、イングランド初代のカンタベリー大司教となったという歴史がある。
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  • カンタベリー大聖堂の身廊は素晴らしい。身廊とはキリスト教聖堂内部の、中央の細長い広間の部分で、入口から祭壇(内陣)までの間を意味し、天空に向けて伸びるが如く柱が林立している。14世紀の垂直式ゴシック様式建築である。このカンタベリーから約8キロ北に位置しているウィスタブルは、「ケントの真珠」とも称されるように、潮風が香る風光明媚な牡蠣の町。
  • ウィスタブル牡蠣の歴史はローマ時代にまで遡り、ローマ帝国でもネイティブ・オイスター(ヒラガキ)が大人気で、当時はウィスタブルに専用の牡蠣採集施設が作られ、何千というネイティブ・オイスターが、ローマにはるばる運ばれていたと伝えられる。ローマ帝国の歴史家サルスティウス(Sallustius=英語名はSallust)も「哀れなブリトン人たち。この地に誇れるものなど何もない。ただこの牡蠣を除いては」と絶賛の言葉を残している程である。
  • このウィスタブルの牡蠣祭り、いつから始まり、その成功要因は何であったのか。それを語ってくれる最適の人物に出会えた。それはDr Clive Askerである。Dr Clive Asker夫妻とロイアル・ネイティブ・オイスター・ストアーズROYAL NATIVE OYSTER STORESと表示された格式ある建物とつながっているWhistable Oyster Fishery Companyのレストランで夕食をとった。夫妻はバカンスの旅から戻ったばかり、荷物を整理する暇もなく、慌ただしく雨の中レストランに20時半に駆けつけてくれた。イギリス人らしいジェントルマン、奥さんも元教師という上品なご夫妻である。
  • ウィスタブル牡蠣祭りを企画したDr Clive Askerが語る。この祭り開始は1985年だが、そのはじまりのきっかけは、ウィスタブルの海では、元々ネイティブ・オイスターを採るだけで、マガキ牡蠣養殖は殆ど行われていなく、マガキの稚貝をフランスに売るのが中心であった。ところが1982年のこと、この年は大量の稚貝が採れたが、フランスでも同様で輸出が激減、やむを得ず地元で牡蠣養殖する必要が出てきて、祭り企画につながったのだが、その前にイギリスの牡蠣に対する意識変化を話したい。
  • 18世紀・19世紀のイギリスでは、牡蠣に対する人々の評価は低かった。それにはロンドンにおける水状況が影響している。当時の水はとても汚かった。なぜかというと、18世紀のロンドンでは、下水設備と、井戸水や圧水による上水設備が入り混じっていたので、人口過密地区に住み、公共上水道を頼りにしている貧しい人々は、汚染された水を飲むことになり、下痢・赤痢・腸チフス・コレラなど、口から入るもの、とりわけ飲料水から伝染する病気が多発していた。
  • 特にコレラは、ヨーロッパ全体で1830年~1864年までの間に合計4回も大流行して、感染者の2人に1人が死ぬという酷さだった。これらの改善は、1830年頃から始まった衛生改革を経て、1903年に首都水道局が誕生し、人々はやっと衛生的な水を得ることが出来るようになった。病気によって衛生の近代化も進んだともいえ、人々の意識には、水によって健康を害されたという、水へのイメージ悪化につながり、結果として水によって育つ牡蠣はよからぬものと評価された。その後の水の改善とともに、ようやく1920年頃から牡蠣に対する認識が正常化して来たという経緯がある。
  • 但し、ノロウィルスに関しては今でもあり、これはノーグッドラックNO Good Luckだと、人差し指と中指をクロスさせる。大量の稚貝が採れた1982年当時のウィスタブルでは、レストランが一軒しかなく、一般店舗も少なかった。その状況下で祭りを提案したのだが、その際に参考としたのはアイルランド・ゴールウェイの牡蠣祭りである。開催時期を、ネイティブ・オイスターを食べられない夏場の7月にした理由は、セント・ジェームズの日St James's Dayがあり、カンタベリー大聖堂が牡蠣シーズンの終わりに、漁師たちに感謝の意を述べ、子供たちが提灯行列するなどの催しが昔からあったので、それに合わせたのである。
  • はじめて開催した1985年、商工会議所が頑張ってくれ順調なスタートを切り、翌年はもっとうまく行った。その背景に商工会議所が店に働きかけ、店頭を祭りらしく華やかに飾り、店内も奇麗にした結果、大勢の人が来てくれ、現在のような盛大な催しになった。成功した要因に加えたいのは、商工会議所に優れたアイディアマンがいて、彼が頑張ってくれたことが大きく、仲間に恵まれたのだと頷く。
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  • 当初と変わったところは、祭りのランデングLanding・幕開で、最初は牡蠣を陸に揚げベルを鳴らすことからはじめたのだが、そのベル・鐘が盗まれてしまったので、今日見たような方法になったのだと笑う。ということでこの日の14時45分から開催されたロング・ビーチLong Beachでの開始セレモニーの様子を紹介したい。
  • まず、カンタベリー大聖堂の司祭によるお祈り、市長の挨拶がある。挨拶の内容は牡蠣に感謝するというもので、次に主催者の商工会議所の挨拶、その合間合間に地元の楽団が演奏し、30人くらいの男女、海辺にふさわしいダンスを踊る。何となくアフリカっぽく感じるが、全員常にニコニコ顔で愛嬌をふりまく。
  • この愛嬌が眼についた。というのもロング・ビーチへ行く途中のイベント広場で、日本の和太鼓が演奏されていた。Chaucer College Canterbury CCC秀明カンタベリー大学の生徒たちの和太鼓演奏だが、全員緊張しているのか表情が全く硬い。真面目に必死に叩いているという感じ。日本人の生真面目さが現れているのかと思うが、祭りであるからもう少し笑顔が欲しいと感じるほど。
  • さて、司祭の祈り、市長の挨拶が終ると、沖合から茶色の帆をつけた船が浜辺に到着し、両手の駕籠に牡蠣をいれた三人の漁師が船を降りて、司祭の前まで進み、司祭からから祝福を受ける。開催セレモニーはこれで終わりである。
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  • その後は、ロング・ビーチから一般道路に出て、仮装行列パレード行進となる。このタイミングになると道路の両脇は見物客でいっぱい。地元の人と、祭り見物の旅行者でホテルは満員となる。
  • この調子で一週間のウィスタブル牡蠣祭りが開催され、期間中この街は人で溢れかえるが、実は祭りが始まった1985年は、マーガレット・サッチャー政権下であった。第二次世界大戦後のスローガン「ゆりかごから墓場までfrom the cradle to the grave」によって「英国病」となり、マーガレット・サッチャー政権下で経済立て直しへ大転換、以後、今のイギリスがある。
  • そのサッチャー氏、7月8日に87歳で死去し葬儀が7月17日、ロンドン中心部のセントポール大聖堂で、1965年のチャーチル氏の国葬以来の、エリザベス英女王の出席と、国内外の要人ら約2300人が参列、1千万ポンド(約15億円)という葬儀費用を要して国葬が営まれた。
  • 英国内では、サッチャー氏の死去を祝う左翼団体の一部が暴徒化して逮捕される騒動が起きているが、1979年から11年間にわたって英首相を務めたサッチャー氏は、国の役割を最小限に抑える「小さな政府」を掲げ、国を開いて海外マネーを呼び込む金融立国で成長を実現したわけで、貧富の格差は開いたが、経済優先という国造りでの貢献をイギリス政府が国葬という形で認めたのである。
  • ウィスタブル牡蠣祭りの開催は1885年で、サッチャー政権下であって、時の首相方針を採り入れ、Dr Clive Askerによる企画から、地元の特性をつけ加え、町の繁栄対策として展開したことが今日の成果となっているのであるから、ウィスタブル牡蠣祭りの盛況さもサッチャー氏の貢献の一つといえるだろう。
  • つまり、時の政治状況によって大都市でも、地方の街でも影響をうけるという事例である。日本もアベノミクスによって、どれだけ変化できるのか。それが楽しみだ。

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